しょぼいEdTech

小さなコミュニティーから新しい価値観を

白紙のノートを白紙にしておくことの難しさ

 良いニュースを聞かないとか、世の中は常に悪くなっていってるとか、不幸の強迫観念的な何かからあなたは不満を漏らしているかもしれない。しかし、世間が思う、「良いこと」は普通や平穏であることであり、実際に世界が悪化しているわけではない。

もちろん、物事の良し悪しは単なる基準なので、普通でないことが良いと考える人にとっては、世界で起こる事件や変革は「良いこと」になる。しかし、ヒトは元来恒常性を保つ生き物であるので、大方保守的に考えるように作られていて、特定の人にとっての幸福とはその人の習慣である。もし、良いことだけを摂取したいと思うならば、情報を遮断した環境で炉端に芽吹く草木をながめていた方が良い。

 

それはさておき、このブログをはじめるにあたってアウトプットする事項を考えていたのだが、自分には記事にするほどの主張が特にないことに気づいた。自分なりの世間に対する主張がないわけでもないのだが、主張する術を知らないし、体系立てて書くこともできない。

  とはいえ、何も書かない限りには何もはじまらないので、とりあえずありきたりな事項として自由を主張してみようと思う。

 

 自由というと僕がまず連想するのがアラジンのジニーなのであるが、彼の金の腕輪は拘束がイメージされていて、それがアラジンの言葉によって消滅させることで、自由を象徴している。

 

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 しかし、本来自由とは、拘束するものの存在が無いことであって、自由の象徴のために腕輪の消滅を描くことは、ジョン・マスカーが不自由な過去の苦難に縛られているのではないか?的な屁理屈を練ってしまう。

自分がもし自由を表現しなさいと言われれば、何も書かずに真っ白なノートを作品として発表する。「これは、自由そのものです。何も存在しないことが自由なのです」と。

胡散臭い自称前衛芸術家には評価されるかもしれない。彼らは川で拾ったブーツを美術部にでも飾っておくだけでも評価するが。

 

しかし、なにかの偶然で後世までこの作品が残ってしまったとしよう。その場合、作品の説明だけが抜けてしまって、「自由」というタイトルだけが残ると、評論家はきっとこの時代には厳しい表現規制が行われて何も表せなくなった背景があるに違いない、とか、表現規制が激化した結果何も表現できなくなった世界を描いている、という風に判断されるやもしれない。

そう考えると、作品の評価が作者の意図と真逆になることは間違いなく存在するだろう。今の時代で巨匠とされている芸術家はそのような誤解が生まれるならば、作品のことなどさっさと忘れてほしいと願っているに違いない。

 

 ともかくいつも僕はなにかを表現しようとするときいつもこんな感じだ。

つまり、自由はしがらみを脱することで得られるものですよ、と不自由さの監督下にある世間に言われるならば、ある程度それに寄り添って意見を述べなければ理解は得られない。これが非常にめんどくさい。腕輪のない真っ白なノートを自分の中に持っていれば十分だ。と思う。

 

結局なにが言いたいのか、まとまりのない記事になってしまったが、「普通」であることの難しさを不思議に思う。「普通」に過ごす世の中の大半の人は、それを我慢しながらペルソナを被って社会にしがみついているのか、それとも何も苦もなく、それが当たり前だと感じることができているのか、を不思議に思う。

 

みなさんはどう感じながら毎日を過ごされていますでしょうか。