クッパよりピチューの方が多くダメージ与えてる感じするよね?
(スマブラの話です。)
自分はスマブラド世代で、64の頃から、近所の友達とワイワイやってた層なのですが
ピチューとか、ピットとか、わりかし早いキャラを使うのが好きでした。
なんでかって、たくさん攻撃を当てていたら勝ってる感じがするから(小並)
でも、やっぱりバランスはしっかり取れてるので、キャラとかは全然関係なく、
上手い人相手では、クッパにもガノンドロフにもしっかり負ける。
サッカーで言ったら、ボール支配率を圧倒的に上回ってるのに
一発逆転されてなんで負けるんだー!
という気持ちによくなりました(笑)。
とまあとりあえずスマブラの話は一旦置いておいて、今回は進捗の評価をあげる方法について書いていきたいと思います。
少し唐突ですが、ショートカットキー(command+cとか)とマウスってどっちが作業が早いと思いますか?
世間的には圧倒的にショートカットキーの方が早いから、覚えましょう、とか言われることが多いと思います。
しかし、appleでMacintoshの開発を担当したブルース・トグナッツィーニが膨大な実験をした結果、
マウスの方が、平均2秒も速い、ということが判りました。
ちょっと衝撃ですよね。
「体感時間と実際の速さは相違がある」
ということが、今回のキーです。
そのほかに、ブルース・トグナッツィーニは、
テキストエディタを実装した際、テキストをスクロールするときに、1行ずつ更新して見せていたのですが
遅いとの評判がつき、1ドットずつ文字を表示してスクロールするように変更しました。
一行を一気にスクロールするより、1ドットずつ表示する方が、圧倒的に「遅い」のですが
実際には、1ドットずつの方が、「速く感じる」みたいです。
この話をみた時、私も先にあげた、スマブラのような体験がいくつか思い当たりました。
つまり外からの進捗の評価は
「こまめに進捗が見えた方が、速く感じる」のではないでしょうか。
チーム開発においても、誰かと誰かを比較的に見たことがないので、実感には至らないのですが、
こまめに報告したり、githubにこまめにpullrequestを出している方が
「しっかりやってるな」感が出そうです。
速さ、という基準だけでなくとも、何かに取り組む時
「大きなことを成し遂げよう」と大きな計画を立てるより
しょぼくてもいいから小さなこと、から初めてみると
「改善したり、軌道修正がしやすい」という点においても
小さなスパンで物事に取り組むのは良さそうですね。
めんどくさいの捉え方
突然ですが、私は学習塾で講師をしております。
高等部の全体管理をやっているのですが、元々ほとんどの業務を紙で行っていて
効率化のためちょっとずつペーパーレスを目指している次第です。
そこで今回書きたいことは、「めんどくさい」の種類についてです
私は高等部の権限しかないので、小中等部やシフトの管理はできないのですが、
小中の授業後、宿題を全部紙に箇条書きにしたり
アルバイトのシフトをペンで直接カレンダーに書き込んだりしていて
情報の共有がおくれがちです(わざわざ教室に見に行ってる)
客観的にみると、gooleカレンダーとtrelloつかえばいいやん
と思うわけですが、導入がめんどくさいみたいです。
今回rails でアプリを作成していて、同じような状況に遭遇しました
コントローラーでレコードを指定する際、
@ladycategory = ProductCategory.find(1) @ladies = Product.where(product_category_id: @ladycategory.subtree).order('id DESC').limit(4)
@ladycategory でカテゴリーテーブルから一行取ってきて
@ladiesにproductテーブル内のカテゴリーID1のものを取得しています。
で、githubで「scope」を使いましょうとコメントをいただきました。
正直、レコードとれてるんだからよくね?とめんどくさく感じたのですが
変更した後、主観的になって初めて気づきました。
あのめんどくささは短絡的なめんどくささだったんだなと
コントローラ
@ladies = Product.active(@ladycategory.subtree).sorted
モデル
scope :active, -> (category) { where(product_category_id: category) } scope :sorted, -> { order('id DESC').limit(4) }
このように修正しました。
これ、レンダーと同じ理屈で
今後の作業が効率化できる
一度scopeをかいておけば
.sortedと記述するだけで降順に4件取得できるんですね
修正も、activeとsortedで分けることで、
後からみたときに何を修正すればいいのかわかりやすい
このような効率化が積み重なって、大きな差が生まれるのかもしれないなと感じました。
要はめんどくさいの捉え方が重要なんかなって
長期的にみると、確実によくなることは
その場では準備するのはめんどくさい
今問題ないならそのままでいいや
って言うのが短期的なめんどくささ
将来的な効率を考えると
今の作業がめんどくさく感じるのが
長期的なめんどくささ
必然的に新しいことに取り組むことにもなるので
プログラミングだけでなくて
あらゆる分野において、長期的に「めんどくさい」
と感じることは成長に欠かせないな、などと
Muse Dash さては神ゲーやな?
飽き性音ゲーエンジョイマンです。地力はまだない。
この前までBeat Savorに虜になってました。
コレ↓
https://store.steampowered.com/app/620980/Beat_Saber/
初回プレイの時衝撃は忘れられません。ハルマゲドン
マジで汗だくになるし、筋肉痛になるしで運動不足の自分にとっては良いこと尽くしでした。
でもやっぱり飽きるもんは飽きる。
新宝島のクソ動画で有名なもりもりさん@MoriMoori がperiscopeで配信されていたのを見て即インストール
steam: https://store.steampowered.com/app/774171/Muse_Dash/?l=japanese
IOS: App名: Muse Dash、デベロッパ: X.D. Network Inc. https://apps.apple.com/jp/app/muse-dash/id1361473095
OMOROI
アメリカンなコミカルなkawaiiが詰め込まれてる。パワーパフガールズみたいなデザイン
UIが優れてるゲームってその他の要素(ストーリーとかシステム)が希薄でもそういうもんだから!ってなるよね(これは違うけど)
コレ中国のperoperogamesって会社が出してるんだけど、中国のゲーム界隈って散々色んな分野パクってきた結果、なんかオリジナルっぽいものが完成してるんですよね。パクリパクリって馬鹿にしてる場合ではないなあと。
話逸れましたが、これゲームとしても普通に面白い。音ゲーとしては2列でノーツを叩くだけでまあ普通なんだけど、マリオみたいな横スクロールアクションになってて、音ゲーなのにザコ敵やボスをなぎ倒していく爽快感がある。
敵が出てきて、敵の攻撃としてノーツが流れてる音ゲーはあったけど、敵自体がノーツになってて、そいつらを倒していくことが目的になってる。これはありそうでなかったなあという感じ。あとかなり高音質です。
操作が単純で敷居も低めなのでどなたにでもオススメです
30秒で一発で「切り替える」
ぼーっとしながら
「あーなんかやらなきゃなあ」「やることがたまりすぎてやる気でない」
みたいな、どうしても乗り気にならないときありますよね。
そんなときこの記事をみました
lidea.today
結論としては、
目をつぶって
片足で立って
30秒声に出して数えるだけ。
これ単純なんだけどほんとに効く
要約すると、
脳自体の全体の働きは一定なので
脳に余裕があるときに余った部分での働きが
めんどくさいという感情を生んでいるらしいです。
イメージ図
そこで、
一気に余っている部分を埋めて、めんどくさいを取り払ってしまおう
脳の中のバランスをとる部分
数を数える部分
発声する部分
を同時に使って。
ということらしいです。
これって要は、めんどくさい時、最初の一歩がなかなか踏み出せないけど
やりだしたら、案外サクサク作業できるやん現象
と同じですよね。
脳科学的に謎が溶けた気がしました。
すごい(語彙)
白紙のノートを白紙にしておくことの難しさ
良いニュースを聞かないとか、世の中は常に悪くなっていってるとか、不幸の強迫観念的な何かからあなたは不満を漏らしているかもしれない。しかし、世間が思う、「良いこと」は普通や平穏であることであり、実際に世界が悪化しているわけではない。
もちろん、物事の良し悪しは単なる基準なので、普通でないことが良いと考える人にとっては、世界で起こる事件や変革は「良いこと」になる。しかし、ヒトは元来恒常性を保つ生き物であるので、大方保守的に考えるように作られていて、特定の人にとっての幸福とはその人の習慣である。もし、良いことだけを摂取したいと思うならば、情報を遮断した環境で炉端に芽吹く草木をながめていた方が良い。
それはさておき、このブログをはじめるにあたってアウトプットする事項を考えていたのだが、自分には記事にするほどの主張が特にないことに気づいた。自分なりの世間に対する主張がないわけでもないのだが、主張する術を知らないし、体系立てて書くこともできない。
とはいえ、何も書かない限りには何もはじまらないので、とりあえずありきたりな事項として自由を主張してみようと思う。
自由というと僕がまず連想するのがアラジンのジニーなのであるが、彼の金の腕輪は拘束がイメージされていて、それがアラジンの言葉によって消滅させることで、自由を象徴している。
しかし、本来自由とは、拘束するものの存在が無いことであって、自由の象徴のために腕輪の消滅を描くことは、ジョン・マスカーが不自由な過去の苦難に縛られているのではないか?的な屁理屈を練ってしまう。
自分がもし自由を表現しなさいと言われれば、何も書かずに真っ白なノートを作品として発表する。「これは、自由そのものです。何も存在しないことが自由なのです」と。
胡散臭い自称前衛芸術家には評価されるかもしれない。彼らは川で拾ったブーツを美術部にでも飾っておくだけでも評価するが。
しかし、なにかの偶然で後世までこの作品が残ってしまったとしよう。その場合、作品の説明だけが抜けてしまって、「自由」というタイトルだけが残ると、評論家はきっとこの時代には厳しい表現規制が行われて何も表せなくなった背景があるに違いない、とか、表現規制が激化した結果何も表現できなくなった世界を描いている、という風に判断されるやもしれない。
そう考えると、作品の評価が作者の意図と真逆になることは間違いなく存在するだろう。今の時代で巨匠とされている芸術家はそのような誤解が生まれるならば、作品のことなどさっさと忘れてほしいと願っているに違いない。
ともかくいつも僕はなにかを表現しようとするときいつもこんな感じだ。
つまり、自由はしがらみを脱することで得られるものですよ、と不自由さの監督下にある世間に言われるならば、ある程度それに寄り添って意見を述べなければ理解は得られない。これが非常にめんどくさい。腕輪のない真っ白なノートを自分の中に持っていれば十分だ。と思う。
結局なにが言いたいのか、まとまりのない記事になってしまったが、「普通」であることの難しさを不思議に思う。「普通」に過ごす世の中の大半の人は、それを我慢しながらペルソナを被って社会にしがみついているのか、それとも何も苦もなく、それが当たり前だと感じることができているのか、を不思議に思う。
みなさんはどう感じながら毎日を過ごされていますでしょうか。